ちょっといい話

第21回

面会交流について思うこと


 「ちょっといい話」には不向きな重い話になってしまいますが・・・・。

 
夫からの暴力、暴言、浮気などで別居・離婚した妻の多くは、父親が子どもたちに会うことに実に拒否的です。
 
私は、20年くらい前までは、彼女たちの心情が分かり、彼女たちの拒否的対応もやむを得ないと思っていました。
 
でも、その後、その考えは少しずつ変わってきました。
 
子どもの幸せとは何かを考えるようになっていったからです。
 
多くの母親が、「結婚生活の中で、私だけでなく子どもたちも父親の被害者でした。」「父親は、育児にほとんど参加していませんでした。」「父親が子どものことを本当に大事だと思っていたら、私にあんなひどいことをするはずがありません。」「父親と別れてから、子どもたちは一度も父親のことを口にしません。」「今は、子どもたちも落ちついて、おじいちゃんやおばあちゃんからもとてもかわいがられてすくすくと育っています。ちっともさびしそうじゃありません。」「私は、今も彼を絶対に許すことができません。」「あんな人は、夫としてだけでなく人間としても失格です。子どもに会わせてよい影響があるはずがありません。」「せっかく平穏に暮らせるようになったのに、今無理やり父親に会わせないといけないとなると、私の精神状態はひどく不安定になります。すると、子どももかわいそうです。」と口をそろえて言います。
 
ある母親は、「離婚届時に、どちらの名字がいい?と子どもに聞いたら、子どもは『お父さんの名字なんか嫌!』って言ったんですよ。」と勝ち誇ったように私に言いました。その子は、離婚調停の中で、試行的父子交流面会をした時(母親がとても拒否的だったので試行的面会は1回きりでした)、家庭裁判所内のプレイルームで久しぶりに会った父親ととても楽しそうに交流していました。それが終わって、廊下に出て母親の顔を見たとたん子どもの顔にさっと影がよぎったのを、今も私は鮮明に覚えています。
 
結婚生活の中で、夫は、ちょっと気にいらないことがあると、物に当たり、家具や壁に穴をあけました。何度も彼女は離婚を考えて家を出ましたが、その都度思いなおして戻り、そしてまた傷つき、長い夫婦の葛藤の中で、彼女の夫への怨念は想像以上のものがありました。その気持ちは私にもよく分かりました。裁判になっても夫は離婚に絶対同意しませんでした。離婚・親権者・慰謝料・養育費の請求をして、そのすべてが判決で認められました。確かに、彼女の夫は、コミュニケーション能力に欠け(相手の気持ちへの想像力に欠ける)、社会的にも未熟な男性で、父親としても欠点がある男性でした。でも、私は、父子交流していた時の楽しそうな無邪気な子どもの顔と母親を見たとたん曇った子どもの顔を見て、夫としては失格でも、子どもにとってはかけがえのない父親なのではないかと思ったのです。
 
法科大学院生の若い女性が私の事務所で短期間勉強に来たことがありました。私が担当していた面会交流の事件に関心があるように見えました。その母親は、父親の面会交流に拒否的でした。法科大学院の学生と語り合ったとき、彼女は自分が離婚家庭に育ち、母親が育ててくれたことを打ち明けてくれました。そして、自分の母親は父親をとても憎んでいて、子どもを父親に会わせたくないということは言われなくてもよく分かった。自分は、父親に会いたいと思ったが、苦労して私を育ててくれた母親にそんなことはとても言えなかった。でも、中学生の時に母親に隠れて一度父親に会った。でも、母親に悪いことをしてしまったという罪の意識が湧いてきた。だから、その後は一度も会っていない。あのお母さんは、子どもをお父さんに会わせてあげればいいのに。と語ってくれたのです。自分にとって憎い人が子どもにとっても間違いなく憎い人なのか、自分と子どもとは違う存在ではないのか、子どもから父親の存在を奪うことは許されるのか、・・・それらを真剣に考えてこそ、本当に子どもを大切にしている親だと言えるのではないかと、学生の話を聞いて、つくづく考えたものです。
 
その母親は、子どもを愛し、一生懸命子どもを育ててきたし、どれほど苦労してきたかその努力には頭は下がるのだけれど、子どもの立場に立って子どもの幸せを本当に考えて行動するということは、実はとても難しいことなのです。
 
子どもは、とても自分を取り巻く環境に敏感です。そしてよく周りの人(特に親)を観察しています。父親のことを何故全く口にしないのか? 子どもが父親の存在について何も感じていないはずがありません。子どもは、今、母親から母方の祖父母から育てられているのです。子どもは、母親も祖父母も大好きなのです。そして、「お母さんがお父さんと離婚していて、詳しい事情までははっきりとは分からないけれどお父さんはお母さんに何か悪いことをしたに違いない。お母さんもおじいさんもおばあさんもお父さんのことがとても嫌いみたい。」ということを子どもなりに感じているのです。だから、父親について全く口にしないのではないでしょうか。
 
父親の悪口など子どもの前で一切言っていないと言うかもしれません。でも、子どもは大人以上に敏感なのです。大人と違って「雰囲気」を感じる本能が備わっているのです。
 
憎むべき相手が、子どもにとって父親だということは、確かに母親にとって考えたくもない、考えただけで強い「負」の気持ちが湧いてくる嫌なことに違いありません。でも、大切な大事な子どもの幸せのために、親が辛くても我慢すべきこともあるのです。今、目の前にいる子どもは、母親を苦しめたくないということで辛抱しているのです。
 
ある母親は言いました。「子どもが大きくなって自分から父親に会いたいと言えば私は反対しない。今はそっとしておいてほしい。」と。
 
でも、成長過程でずっと父親に会わずにきた子どもはどうなるでしょう。自分や母親を捨てた憎むべき父親像を、逆に、あり得ない理想の父親像を固定化させ、ゆがんだ父親像を持ち続けたとしたら、それは子どもの成長にとって悪影響になるに違いありません。その後、父親に会ったとしても、よい父子関係が築けるとは思えません。
 
世の中に完璧な人間なんていません。よい父親だけが父親と認められるのではないと思います。自分には両親が居て、欠点はあっても自分のことを大事に思ってくれていると子どもが感じることは、子どもの幸せに必ず結びつくと思うのです。
 
子どもも大きくなると日常見ている親を批判的に見るようになります。「あんな父親と接点を持ったら、悪い影響しか受けない。」と考えるのは、少し心配し過ぎではないでしょうか。欠点もあるし、良いところもあるし、そんないろんな人との関係の中で人は成長していくものです。
 
子どもと接点を持つと、明らかに害のある親もごく一部に居ることは間違いありません。その場合は、例外的に、子どもの福祉の観点から、面会交流は認められるべきではないと思います。でも、母親の夫(あるいは元夫)への負の気持ちが父子の交流を妨げているのなら、親として本当に子どもを愛しているのなら、今一度、子どもの幸せとは何かを考えてほしいのです。
 
そして、それは父親にも言えることです。
 
面会交流を拒否されている父親の多くは「子どもは本当は私に会いたいのに、子どもをそのように仕向けているのは彼女だ。母親なら、子どもの気持ちをもっと尊重すべきだ。」と専ら母親を非難します。そうではなく、母親が嫌悪感や不安感から少しでも解放されて精神的余裕をもって子どもを見ることができるようになるために、自分に何ができるかということを考えることのできる人になって欲しいのです。父親として、子どもを大事に思っているのなら、是非ともそのように考えてほしいのです。
 
憎しみの対象になってしまっている二人にとって、とても難しいことだとは分かってはいても、それでも、大事な子どもの両親として、是非とも、子どもの立場から考えてほしいのです。
 
これが私の思いです。

ご相談お申込み 052-972-0091

前のページへ戻る

  • 最新5件:ちょっといい話

  • お問合せ

    ご相談はこちら
    お気軽にお問合せください、初回は相談無料です お問合せフォーム
  • バナーエリア

  • QRコード

    ケータイサイト

  • ページの先頭に戻る